2011年1月17日月曜日

アリとキリギリスの続き。イソップ物語が嫌いな理由を分析してみた。

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ぼくは昔からイソップ童話がどうも好きになれません。

その他、赤ずきんちゃんとか、木こりが斧を落とすお話、みたいな、教訓めいたお話や本がどうも好きじゃないようです。
でも、考えてみると何かを教えるのに物語というのはすごく丁度良くて、言いたいことや結論がより伝わりやすい形で届けられるので、別に悪いことではないような気もします。

書いていると理屈が強引な気がしてきたのですが、それも含めて時々感じるこの違和感に関して考えを整理してみました。

現実では結論なんて1つじゃない

どうも好きになれない理由を自分なりに考えてみたところ、「現実では結論なんて1つじゃない」ということが原因にあるっぽいということがわかりました。

アリとキリギリスだと準備って重要っていうひとつの結論を説明しているわけだけど、考えてみるとこれがいつも当てはまるとは限らない。もしかするとアリは働きすぎて鬱病になっちゃうかもしれない。

例えばいつも頑張る必要はないんだよってメッセージだって1つの結論としてあっても良いけど、その他の選択肢がばしっと端折られてる、時には間違っている、と主張しているように感じられます。そもそも何か主張をしようとしたらば他の選択肢は端折られるわけなのだけど、端折ってるどころか間違ってる、というメッセージになっているのに問題があると思うわけです。

何かを主張するということ

イソップ物語が嫌いな理由を考えていて思い当たったのは、何かを主張する時には、他の選択肢の可能性を否定するような話し方、というのはなるべく避けなければならない、ということです。

世の中とても複雑な要素がからみ合って出来ているので、どんな時にも自分の主張や支持する選択肢が効果を発揮するとは限らない。だから、他の選択肢を端折ることは1つの主張をするときには仕方がないことだと思うけど、別の選択肢を残しておく、という考え方や目線が必要なんじゃないか、というのがぼくの意見です。

バイキンマンが悪いことばっかりするからって殺したりしちゃいけないんです。

※これは過去記事だけど問題の意味を考える、ということと通じると思います。
問題解決の前に、問題の意味を考えたい - ナウシカとセミナーで考えたこと

アリとキリギリスのつづき

どうやらイソップ物語がやなのは、「物語」という形式そのものではなくて、最後に教訓の反対をやった人が死んだり苦しい思いをすることで選択肢を排除する、という点だったようです。

だからこんなのがあるといいんじゃないかな。

20年後・・・
アリ社会では人口増加で未曾有の食料危機を迎えています。収集では間に合わず、5年前から食物の栽培をはじめるなど、事前準備は欠かしませんでした。しかし労働から得られる食料がどんどん縮小。働いても働いてもひもじいのです。

そして思います。

あー、あの時歌ばかり歌っていて、冬に餓死したあいつ。もしかするとあの生き方は幸せだったのかもしれない。おれは仕事をしたり蓄えたりするばかりでなくあいつに何かを与える、ということをするべきだったかもしれない。そうか。あの時おれが食料をあげていたら、歌を一緒に楽しむこともできたかもしれない。いや、そんなことはない。あの時食料を渡していたらおれの命が危うかった。それにおれたちがこれだけの人口と繁栄を築けたのは何よりもおれの労働のおかげだろ?十分世の中に貢献してきたじゃないか。

確かにおれの人生が幸せだったかと聞かれると即答できないおれはいるよ。でもいったい誰がおれを責めることができる?

ふぅ、、、何が正解なのかもうおれにはわからないよ。。。

なんて生きづらい世の中なんだ。。。

そういって、ひとりのアリが命を失いました。
皮肉なことにキリギリスが死んだあの寒い日からちょうど20年後の同じ日でした。

今日も彼の子孫の何百万というアリたちが食料を運んでいます。


おしまい。

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