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これに対して、いろんな人がいろんなことを言っていて、誰の言い分も正論に聞こえるんだけど、ぼくなりの答えを考えてみました。
ぼくの結論は、一言で言うと、「軸が増えすぎている」ということです。
経緯
まず、どうしてこんなこと考えるようになったのか、という経緯から。ぼくはどちらかというと若者の中でも、いろんなことにコミット感もっていられる、というか、組織に目標があれば、なんとなく達成しなければならないなぁと思うタイプです。悪く言えば考えなし、よく言えば従順/適応能力高いというように思ってます。
しかし、ぼくと同年代の世代でも何でそんなことやんなきゃいけねぇの?的な考え方の人がすごく多いなと感じています。しかも、彼らの言い分を聞くとロジックがきちんと練られていて、おっしゃるとおりだなと感じることが多いのです。
そこで、若者のコミット感のなさ=悪い ではなくて、実は良いことだったりするのかな?と思うようになりました。
そう考えているうちに、そもそもなんでこんな現象が起きるようになったんだろう、と考えを深めるようになったわけです。
そもそもぼくがお伝えしたい「軸」とは?
ぼくが結論として提示した軸が多い、という点ですが、ここで言う「軸」とは「考え方の拠り所」という意味です。もちろん考えるジャンル毎に色々あるわけですが、例えばぼくで言えば、
・両親の考え方
・学生時代の恩師の考え方
・尊敬するビジネスパーソンの考え方
・尊敬するお友達の考え方
・尊敬するブロガーの考え方
・読んできた本の考え方
とかそういったことが大きく考え方の拠り所になってると思います。
みのもんたが入ってる人や、聖書が入ってる人、色々いると思いますが、そんな考え方の基板を築くものを「軸」と表現してみました。
もちろん人っていうのは自分の聞きたい人の意見しか聞き入れない生き物なわけで、選別はその人の性質で行っていくものだと思いますが、環境によってこの軸の多い少ないはブレが出てくると思っています。
中国の若者の軸は少ない
コミット感がないのが日本の若者だとすると、コミット感のあるのってどんな人だ?と考えました。そこで、思いついたのが中国の若者です。毛沢東がちょこっと刺激しただけで、ものすごい勢いで日本バッシングに走ってみたり、ものすごい勢いで国民党の高級官僚を攻撃してみたり。それはもうすごい共産党へのコミット感を持つな、と感じたわけです。
ぼくはこのコミット感の強さの拠り所は軸の少なさではないかな?と思いました。何しろ軸に影響を与える人たちもみな共産党の息がかかっているからです。インターネットも素敵なファイアーウォールに遮られていて自由に閲覧することができません。
戦時中の日本も同じように軸になるものすべてが天皇中心主義の考え方でした。それはコミット感が強まらざるを得ないわけです。例えば、両親が生きて帰って来い、とかっていう当然の価値観をぶつけても、いや、おれはお国のために死んでくる!っていうことになるわけです。
このように軸が1つに統一されていく時、ものすごくコミット感を生み出すんじゃないかなと思うのです。
一方日本の若者は・・・?
とすると、現代の若者はすごいコミット感がないのは軸がたくさんあるからではないか?と考えるようになりました。軸が多いことは2つの側面から説明できるんじゃないかなと考えます。
1つは
軸になるべき考え方の拠り所すら、ものすごい価値観の変化を経験している、ということ。
2つは
インターネットの普及で、メディアが多面化している、ということ。
です。
まず1つ目から。
若者は親の世代/そのさらに親の世代、という2つの世代で、大きな意識の変化を体験しています。親の世代ではバブル崩壊、さらに親の世代では戦争前後の教育のあり方です。それぞれの世代ではせいぜい2つの概念で揺れ動くのだと思うのだけど、その子供の世代はものすごい選択肢を持つことになります。
次の2つ目。
インターネットの普及で、テレビや雑誌、マスメディアの言うことだけがすべてじゃない、ということが非常に明らかになってきたと思います。情報がフェアになればそれだけ触れることのできる情報も増え、考え方の拠り所になるポイントも増えてきます。そうすると色々な価値観に触れる中で、軸が増えてくると思うのです。※ぼくも現に、好きなブロガーが考え方の拠り所になってると思いますし。
軸が増えるとどうなるか
このように軸が増えてくると1つの価値観にコミットしづらくなってきます。なぜなら過去の経緯に従うというのは数ある選択肢を選べずに強制される、と感じるからです。
たくさんの年配の男性の中で気を使いながらお酒を飲むことも、お客さんの理不尽とも言える要求に応え続けることも、受け入れやすさが変わってくると思うのです。
でもたくさんの選択肢から自分のやりたい方向性を選びとっているのだとするとそれは素敵なことなんじゃないかなと思うのです。
まとめ。軸を絞る努力が必要と思う。
というように、ぼくは軸がたくさんあって、コミット感のない状態というのも1つの素敵な生き方ではないかと思っています。先日の選挙で、指導力あるリーダーを熱望しているという日本のアンケート結果から、有識者が「これは独裁国家が生まれる時の心理によく似ている」とかおっしゃってましたが、起こるわけないと思うわけです。何しろ当時に比べたら日本は考える軸が多すぎるからです。これはこれでひとつ素敵だと思うのです。ただ、ぼく個人的には、コミットする中で得られることもたくさんあるんじゃないかなと思っています。たとえばその組織に属することで得られるノウハウや、人間心理の醜い一面などコミット感が強まれば強まるほどわかってくるものも多いのです。
だから数ある軸の中で、いくつかの軸を選びとって、コミット感を強め、他の軸を切り捨てる、という努力があると一番自分にとってのメリットが大きくなるんじゃないかなと感じています。
P.S.
実は、そんな世代間の軸の差を埋めるのは皮肉なことに違う軸を挿し込むことだったりするんじゃないかなと感じています。
それはまた別のエントリーで。
※1:コミット
コミットメント=契約。個人、組織の目標を明確にして皆で確約するというような意味。組織やコミュニティに対してコミットする、といった時には「自分ごと感」と言い換えるとニュアンス近いかもしれません。
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